礼拝説教

上にあるものを思いなさい


2025年07月06日

本文:コロサイ人への手紙2章16節〜3章4節

「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」(コロサイ3:2)

このパウロの言葉は、現代に生きる私たちにも鋭く響いてきます。表面的には宗教的でありながら、実は人間の作った文化や慣習に縛られた信仰。私たちが歩む日本社会の中にも、そうした形骸化した「霊的なもの」が溢れています。

パウロは、食べ物や祭りの日、安息日などの「影」にすぎない律法にとらわれることを警告します(コロサイ2:16–17)。さらに、御使いの礼拝や神秘的な幻への依存も戒めています(2:18)。それは、信仰の中心からキリストが抜け落ちた状態です。

日本ではどうでしょうか。霊的存在や自然現象、祖先の霊、あるいは「雰囲気」や「感じのよさ」が、そのまま信仰の対象とされることがあります。「ありがたいから」「守られている気がするから」といった感覚が、人を神へではなく、作られたものへと向かわせてしまう危険があります。

私たちはどこに繋がっているでしょうか。パウロは言います。「かしらにしっかり結びつくことをしない」(2:19)。ここでの「かしら」とはキリストです。見えるものや感じることに信仰の根拠を置くのではなく、キリストという人格と真理に自らを繋げて生きる。それこそが、霊的成長と真の喜びの源です。

それに対し、日本の信仰文化はしばしば「実用的」な面を強調します。安心感や浄化、成功、健康といった「目に見える祝福」を得るための手段として、信仰が消費されるのです。

しかし、パウロははっきりと語ります。外面的な宗教的行為は、「いかにも賢そうに見える」が、実は「肉を満足させるだけ」であり、霊的には無価値だと(2:23)。

コロサイ3章に入り、パウロはこう呼びかけます。「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(3:1)

豊かさとは何ですか。キリストによって永遠のいのちを得た者は、もはや地上の所有や栄光にとらわれる必要はありません。真の豊かさとは、自分を低くし、空しくされることのできる心の自由です。真の豊さは、隣人を豊かにする力です。ガリラヤの漁師たちが金銀はなくても、「私にあるものを与える」と言ったように(使徒3:6)、私たちの内に宿るキリストこそが、最も尊い宝なのです。

私たちのいのちは、キリストとともに神のうちにあります。パウロは「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」と語ります(3:3)。この世の栄光や欲に縛られず、目に見えない天のリアリティに生きる者こそ、真に豊かな人生を歩む者です。

この信仰が、私たち一人ひとりの歩みの土台であるように願います。日々の生活の中で、「地にあるもの」に心を奪われそうになるときこそ、「上にあるもの」を思い起こしましょう。

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