2025年06月01日
本文:コロサイ人への手紙1章1〜8節
コロサイ人への手紙はパウロが獄中で記した四つの書簡のひとつであり、エペソ書と並ぶ深遠な神学的書簡です。この手紙は、パウロ自身が訪れたことのない、小アジアの片田舎にある教会に宛てて書かれたものでした。
それでもなお、パウロはこの教会の人々の信仰、愛、そして希望に深い敬意を抱いていました。手紙の冒頭で、彼は自らを「神の御心によるキリスト・イエスの使徒」と紹介し、共に手紙を記した若き同労者テモテの名を記しています。そして続く挨拶の中で、「恵みと平安があなたがたにありますように」と祈っています。これらの言葉は、単なる定型文ではありません。鎖につながれた獄中から、なおも信徒たちの霊的な祝福を願い続ける、その深い愛と祈りが滲み出ているのです。
この手紙の受取人は、パウロの弟子エパフラスによって生まれた教会でした。コロサイに生きる人々は、ローマ世界の宗教的・哲学的混沌の中にあって、キリストにある信仰と、すべての聖徒に対する愛、そして天に蓄えられた望みに生きていました。パウロはそれを聞き、神に深く感謝したと記しています。
その信仰の背景には、当時の世界の思想的な複雑さがありました。ギリシャ哲学、ユダヤ主義、神秘主義的な教えが入り混じる時代でした。そうした世界観の波が、小さな教会の信仰を脅かしていたのです。まさにその只中で、パウロは「イエス・キリストとは誰か」という問いに、明確で力強い答えを示そうとしていたのです。
私たちの時代も、どこかそれに似ています。情報が溢れ、価値観が多様化し、何が真理で何が偽物かを見極めることが難しくなっています。そんな現代にあって、私たちもまた、自らの信仰の土台を問い直す必要があるのです。
パウロの感謝は三つのことに向けられていました。第一に、イエス・キリストへの信仰。第二に、すべての聖徒への愛。そして第三に、天に蓄えられた希望です。これは、キリスト者の信仰の三本柱と言ってもよいでしょう。この三つは、人の内に留まらず、祈りによって他者を生かし、福音によって広がっていきます。
「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で実を結び成長しています」とパウロは言います。信仰は、聞くことから始まり、理解を通して深まり、やがて実を結びます。誰かが語り、誰かが聞き、誰かが受け取り、理解し、それがまた別の誰かに伝わっていくのです。
コロサイの教会に福音をもたらしたのは、パウロではなく、エパフラスでした。彼はエペソで福音を受け取り、自分の故郷に戻って教会を建てたのです。彼のような忠実な働き人がいたからこそ、今日私たちも御言葉を手にすることができているのです。
聖霊による愛に満たされたエパフラスの報告を受け取りながら、パウロはなおも祈り続けています。「あなたがたのために、私は神に感謝している」と。
コロサイ書の冒頭8節には、初代教会の健全さの姿が、静かに、しかし力強く描かれています。私たちの教会はどうでしょうか。私たち一人ひとりは、キリストにある信仰、兄弟姉妹への愛、天にある希望に生きるべきです。
時を越えて語られるこの手紙は、決して過去の物語ではありません。パウロの筆を通して、主は今も語っておられます。「あなたがたのために、天に蓄えられている望みに基づいて」生きなさいと。