2025年05月18日
本文:ヘブル人への手紙11章1〜6節
私たちの信仰の歩みは、目には見えないものを確信し、まだ実現していないことをあたかも今そこにあるかのように受け取るところから始まります。ヘブル人への手紙にはこう記されています。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。そして、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」ともあります(ヘブル11:6)。
何もないように見えるこの場所からこそ、神は大いなる働きを始められるのです。なぜなら、信仰とは、未来の現実を今日の確信として生きることだからです。では、その信仰の源は何でしょうか。それは、聖書が語る「十字架の愛」そして「復活の力」にあります。
十字架とは、神の愛の極みを表す場所です。神は、ご自身の御子を惜しむことなく、私たちの罪のために死に渡されました(ローマ8:32)。パウロは「十字架のことばは、救われる私たちには神の力」と語ります(Ⅰコリント1:18)。私たちの教会は、この十字架の意味を誰よりも深く理解しようと、これまで歩んできました。主イエスの叫び、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を心に刻みながら、何度も苦しみの谷を通り抜け、その度ごとに主を見上げて立ち上がってきたのです。
しかし、福音は十字架だけでは終わりません。主イエスは墓にとどまらず、死に勝利してよみがえられました。ヨハネによる福音書には、主がマリアに語りかける場面が記されています。「わたしはよみがえりです。いのちです。…このことを信じますか」(ヨハネ11:25-26)。この問いかけは、今を生きる私たちにも向けられています。主の復活を、私たちはどこまで本気で信じているでしょうか。
復活の信仰は、単なる出来事の記憶ではありません。それは、失望や挫折、死のような日々の中から、もう一度立ち上がる力です。「私たちは死んでも、主は私たちを死んだままにはされなかった」――この確信こそ、私たちの証しであり、誰にも奪われることのない真実です。
どれほど麗しい言葉を並べたとしても、死そのものに美しさはありません。死は終わりであり、別れであり、深い悲しみです。けれども、主は死を打ち破ってよみがえられました。そして「死んでも生きる」と語られました。私たちはこの約束を、日々の生活の中でどう受け取っているでしょうか。
愛していた者の死を前に泣いたマグダラのマリアは、その涙のゆえに復活の主を最初は見分けることができませんでした。彼女の愛は本物でした。しかし、その愛が復活の信仰へと至っていなかったのです。私たちはどうでしょうか。主を愛するがゆえに涙を流しながらも、復活の光を見失ってはいないでしょうか。
十字架の愛と復活の力――この二つが揃ってこそ、私たちの信仰は真に全きものとなります。今、私たちの教会は新たなステージへと進もうとしています。この不確かな時代にあって、なおも神の栄光を証しする教会であり続けるために、もう一度原点に立ち返りたいのです。十字架と復活、この福音の二本柱に立って歩み出すとき、どんな困難にも倒れることなく、神の栄光を豊かにあらわす者とされるでしょう。
今年の5月29日は昇天日――主イエスが復活から40日後に天に上げられた日です。この復活の季節を、ただの記念日にするのではなく、信仰を新たにする時としたいと願います。復活の力という輝かしい衣をまとい、神のご計画に生きる者として、共に立ち上がってまいりましょう。