2024年05月05日
本文:コリント人への手紙第一 7章17〜24節
パウロは、割礼を受けることも受けないことも、どちらも取るに足りないことだと言いました。普段、私たちの焦点は、あることをすべきかどうかという点に置かれます。2つの集団の間で物事に対する意見が食い違うことによって、論争や分裂の火種が生じることもあります。パウロは、まず神様の命令を守ることが大切であると言いました。割礼を受けている人は、高い水準で律法を守ろうと努めているのであり、その信仰の姿勢は見習われるべきです。一方で、割礼を受けていないのなら、わざわざ受ける必要はないと言いました。キリスト教は救いに関する真理を語っています。救いは、外見上の形式を守ることによるのではなく、完全に神の恵みによるものです。
当時の初代教会では、奴隷の主人と奴隷が同じ教会の信徒になる可能性もありました。教会では皆が主にある兄弟姉妹ですが、家では主人と奴隷の関係に戻ります。奴隷は主人に対し、自分を奴隷扱いするべきではないと主張するかもしれません。パウロの答えは奴隷に対する助言でした。それは、自分が奴隷であることを気にしてはいけない、というものでした(第一コリント7:21)。パウロは奴隷制度を容認しているのではありません。人間を含む全ての被造物は神様に作られ、人間は誰しも神の前に等しく尊い存在です。肉体が奴隷であるか、ないかは取るに足りないことです。福音による救いを通して既に魂が自由を得ているではないかということです。魂の自由は、肉体の自由よりも高い水準の自由です。自由を得た魂は、肉体の置かれた状況に影響されません。人は、肉体の自由よりも高い水準である、魂の自由を得なければなりません。
22節に「主に属する自由人」という言葉があります。人間は社会階級や所属する集団を問わず、皆が罪人です。罪人の魂は霊的に支配され、囚われています。一方、パウロは何度も投獄され、身体の自由を奪われていました。にもかかわらず、彼は牢獄から緒教会に手紙を書いて、「喜びなさい。感謝しなさい。我々は自由を得ているではないか」と信徒たちを励ましました。牢獄も鞭も死の恐怖も、パウロの魂を閉じ込めることはできなかったのです。自分の肉体がどのような状況であっても、魂はいつも自由を得ていました。
奴隷の主人は奴隷の肉体的自由を奪っています。しかし、奴隷本人の魂は誰にも縛られることがありません。では、魂の自由を奪うものは何でしょうか。それは奴隷である彼自身の罪です。聖書の御言葉に従って生きようとするとき、魂を束縛しているものが見えるようになります。御言葉に従うことが難しく感じられるのです。私たちの魂を束縛しているのは、罪に対する欲かもしれませんし、お金、物質の豊かさ、有名、名誉などといったものかもしれません。これらのものが、神様に従おうとする私たちを捉えて閉じ込めようとします。たくさんのことが心配になります。パウロは、私たちがこれらのことから自由になるべきだと教えているのです。
魂の自由は、私たちの魂が神の御言葉である聖書に従うことを通して得られます。真理の生き方に従って生きることこそ、最高の自由です。この水準に達しなければ、魂は自由を得られず、罪深い人間の世界とその枠組み、その律法に魂が囚われたまま生きることになります。また、更に低い水準においては、魂が罪悪に囚われたまま生きています。魂が罪を犯すことを楽しんだり自慢したりしている状態です。罪に縛られて抜け出せずにいるのに、自由を得ていると勘違いしています。
イエス・キリストによって、私たちは罪の束縛から自由の身とされました。真理に従って生きる自由という、最高の自由を得ました。魂の自由を得た人は、神の御言葉によって日々新しくされます。罪に従って生きてはいけません。イエス・キリストに従って生きるべきです。