2024年02月18日
本文:マルコの福音書 14章35-36節
ゲツセマネはオリーブ山という小高い丘にありました。主(しゅ)イエスはここで十字架をお引き受けになる前の最後の祈りを神様に捧げました。その凄絶な祈りの格闘を福音書の記者たちは記録しています。
主イエスの働きにおいて重要な2つの場所がありました。一つは会堂、もう一つはオリーブ山でした。特にイエスはいつもオリーブ山で神の国を教え、祈りました(ルカ22:39)。そしてゲツセマネはオリーブから油をしぼる所です。オリーブ山にはオリーブの木がたくさん植えられていて、イスラエル人はその実を搾って油を採りました。
私たちはイエスを「イエス・キリスト」と言います。キリストはギリシャ語で「油注がれた者」という意味です。ヘブル語では「メシア」です。イスラエル人は王位を継ぐ人物を選ぶと、その人の頭に油を注ぐ儀式を行って王を任命しました。
神の御子、主イエスのご生涯で、この方に油を注いだ人がいたでしょうか。バプテスマのヨハネは処刑された後、主イエスの弟子たちが油を注ぐべきでした。しかし、イエス様はご生涯において人々からキリストとして油注がれることはありませんでした。弟子たちも、主イエスが十字架につけられて死なれ復活された後になって、主イエスこそまことにキリストであることを悟りました。
主イエスはゲツセマネで、できることならこの杯を自分から取り去ってくださるようにと神様に祈りました。神を信じて生きるからといって良いことだけがあるのではありません。すべてが輝かしい栄光としてやってくるのではありません。試練にあって動揺しない人は一人もいません。信仰の道は涙なしに歩めません。恐れや不安のない人はいません。ゲツセマネでひれ伏して祈る主イエスの姿は、私たちの慰めではないでしょうか。私たちの主は、とても弱い姿をしておられる方です。十字架刑は恐ろしい刑罰であり、苦しみもがきながら命を奪われる残酷な処刑方法です。主イエスは、簡単に十字架の苦痛に打ち勝てるかのようには言いませんでした。かえって大きな叫び声と涙をもって神に祈りました。(ヘブル人への手紙5章7節)
「父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」
とても人間的で、美しい祈りではありませんか。私たちはこの祈りを愛さずにはいられません。しかし、祈りはそれで終わりではありませんでした。
「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
恐れ、悲しみ、悩み、涙、その全てを服従させ、神に捧げました。ピリピ人への手紙2章でパウロが、主イエスは死にまでも従われたと述べた通りです。人間にとって最も克服しがたい死の力に対峙し、最後まで神様の御心に従いました。ゲツセマネの祈りが私たちに語りかける最大のメッセージ、それは「神様への服従」です。
イエス様を信じて救われてからも、私たちは心を乱すことがあります。人生には多くの問題があります。恐れ、おののき、涙、苦痛があります。しかし、その時に私たちは、主イエスが歩まれた道を思い起こすのです。その道は、神の前にひれ伏して祈り、全ての人間的な思いを服従させ、お一人で立ち上がって引き受けてゆかれた道でした。
キリスト教の象徴は、痩せ細り、鞭打たれ、いばらの冠をかぶったイエス様です。人に慕われるような姿はなく、かえって人々に疎まれて見放され、軽蔑されました。しかし、キリストは苦難を愛しました。キリスト教は、痛みと苦難の意味を理解する宗教です。