礼拝説教

『何のために、香油をこんなに無駄にしたのか』


2024年02月04日

本文:マルコの福音書14章3-9節

ヨハネの福音書13章2節では、悪魔は既にイスカリオテ・ユダの心に、主イエスを売ろうとする思いを入れていました。マルコの福音書14章やヨハネの福音書12章は、ユダがどこから道を踏み外したかを明らかにしています。マルコは、主イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家で食卓に着いておられたと記しました。ツァラアトに冒された人は、健康な人たちの生活圏から隔離されなければなりませんでした。人と会うことは許されず、まして一緒に食事をするなど想像もできないことでした。

主イエスがこの家で食事をしているとき、一人の女性がとても高価な香油、すなわち純粋なナルド油の入った石膏のつぼを持ってきて、その石膏のつぼを割り、イエスの頭にその油を注ぎました。ユダヤ人は、客人を迎えると足を洗ってあげる風習がありました。そして食事の前に、香油を少しだけ指先につけて客人の頭に振りかけるのです。ほんの少しだけの油でも十分な礼でした。ところが、女性は香油を頭からしたたるほど注いだのです。つぼに入っていた油全てを主イエスに捧げました。いくら捧げても惜しくないのが真の愛です。

ところが、この女性の主イエスにしたことを見た弟子たちは憤慨しました。女性のしたことは無駄であり、行き過ぎだと非難したのです。

しかしイエス様は、世界中のどこででも福音が宣べ伝えられる所では、この女性のした事も語られ、この人の記念となるでしょう(マルコ4:19)と女性を褒めてくださいました。主イエスが私たちに注いでくださった愛を「福音」といいます。ところが、この女性が表した愛は、まさに主イエスがくださった愛と同じでした。彼女が表した愛は見返りを求めたものではありませんでした。自分が持っている全てのものを惜しみなく捧げたのです。主イエスは、ご自分のたった一つの命をも捨ててまで、私たち罪人を許し、十字架で死なれました。十字架は主イエスの愛の勝利を表すのです。

主イエスと共に過ごしてきた弟子たち、主の愛を見てきた弟子たちは賢くて打算的でした。女性の愛を美しいと感動するのではなく、無意味な浪費だと思いました。愛は美しいものです。主イエスが女性の愛を美しいと言ってくださいました。主イエスの焦点は香油の値段ではなく、惜しみなくすべてを捧げた愛の行動にありました。

女に憤慨した者を、マタイの福音書は弟子たち、マルコの福音書はある人々、ルカの福音書はパリサイ人、ヨハネの福音書はユダと記しています。これはすべての人々を象徴していると言えます。彼らは「あれを売って貧しい者に分けてやらないのか」と、貧しい人を愛するように教えているかのようですが、彼らこそ本当の愛がどんなものなのかを知りませんでした。彼らには主イエスの愛が見えていませんでした。

愛が冷めると、私たちも同じです。弟子のユダは、女性が主イエスを高く崇めて愛するさまを見て心が揺れ動き、遂には裏切ってしまいました。

主イエスは世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたとあります(ヨハネ福13章1節)。最後の晩餐においてもまだ「誰が一番偉いか」を争った弟子たちの愚かな姿を見ると、主イエスの愛がどこまでも無駄で無謀なものに映ります。しかし、主イエスは最後まで、惜しむことなく、ご自分が死に至るまで、弟子たちに愛を注ぎ続けてくださったのです。

キリスト教は実用と打算を否定するのでしょうか。決してそうではありません。しかし、我々は愛において打算的、実用的になってはならないのです。真の愛は無謀です。すべてを惜しみなく手放します。それが、主イエスの愛でした。我々はその愛によって生かされているのです。女性は主イエスの愛を悟り、その愛に同じ愛で応答することを望みました。

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