2024年01月07日
本文:ガラテヤ人への手紙4章8節〜20節
神が出エジプトでイスラエルの民を遠回りさせたのは、民がエジプトを懐かしがり戻ってしまってはいけないとお思いになったからです。神の懸念は、天の御国に向かって歩んでいる人たちにも当てはまります。奴隷の暮らしから解放され自由を味わった人たちが、自由であることを不安に思って再びエジプトでの奴隷生活に戻ろうとするのです。これが我々の信仰においても大きな悩みです。我々は、奴隷の人生に約束も相続もないということを知らなければなりません。パウロはどうやって奴隷に戻りたがる衝動を乗り越えたのでしょうか。ガラテヤ4:9には「神に知られている」とあります。自分が神に注目されていることを知ることは、クリスチャンが得る恵みの一つです。
主イエスが福音を宣言された今、割礼と律法を重んじるユダヤ教も異邦人の異教も世の主権、「神ではない他の神々」に服従するという点において同類であるということです。これは、元パリサイ派のパウロにしては驚くべき発言です。パウロは、自分がかつて信じていたすべてのものを「ちりあくた」だと言いました。(ピリピ人への手紙3章8-9節)ユダヤ人改宗者も異邦人改宗者も、キリストが彼らを解放されるまで、この世の諸々の力に縛られて生きてきました。これらの力には、人が神の恵みから離れて信頼を置くすべてのものが含まれるのです!
ユダヤ教の中心は律法であり、キリスト教の中心はキリストです。クリスチャンはキリストの中に神の律法が成就されていることを知っています。キリストの愛の生き方に従うとき聖霊が直接的に働いてクリスチャンを導かれることを重視します。したがって、行いの律法は必須ではありません。