2023年12月17日
本文:ガラテヤ人への手紙3章3節~22節
パウロがアブラハムの事例を用いて信仰により神に義とされることの正しさを説明しています。神様はアブラハムを義と認めてくださいました。(創世記12章)神はアブラハムと約束し、「あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす」とおっしゃいました。この大きな祝福はアブラハムの行いによって与えられたのか。そうではありません。アブラハムが祝福されたのは信仰によってです。彼は信仰によって神のお呼びに従い、どこに行くのかも知らずに出て行きました(ヘブル人への手紙11章8節)。『アブラムは主(しゅ)を信じた。それで、それが彼の義と認められた』(創世記15章6節)のです。律法はアブラハムが死んでから430年後にモーセに与えられた戒めです。従って、神様は人の律法の行いによらず、その人の信仰をご覧になって、その人を義と認めてくださる方です。
イエス・キリストは、神から離れることを願った罪人であるわたしたちが負うべきだった十字架の呪いをご自分がお引き受けになり、わたしたちを呪いから贖い出してくださいました。ユダヤ人にとって十字架は呪いのシンボルでした。不名誉な十字架の死だけは何としても避けねばなりませんでした。その十字架を掲げて、「ここに救いがある」と言われても、ユダヤ人にとっては受け入れがたいものだったでしょう。我々のような異邦人にとっても同じはずです。十字架を背負って生きることこそ真理だと言われても、決して簡単に受け入れられるものではありません。ユダヤ人にとって十字架は躓き(つまずき、信仰によって乗り越えるべき高いハードル)でした。
イエス・キリストは豊かな方でした。しかし、わたしたちの弱さのためにご自分を無にし、ご自分を卑しくされ、貧しくなられました(コリント人への手紙第二8章9節)。それがキリストが十字架で死なれた理由です。十字架は、イエス・キリストの愛の現れでした。罪なきお方、キリストがわたしたちの代わりにあらゆる罪の呪いを背負われたからこそ、わたしたちは神との和解を許されたのです。ですから、わたしたちがこの生まれ変わった生涯を用いて、キリストが歩まれた道を歩むことが、アブラハムの子として数えられ祝福をいただく唯一の道なのです(ヘブル人への手紙13章13節)