2023年09月10日
マタイの福音書21章33-46節
このたとえは(しゅ)イエス・キリストご自身の置かれた状況を説明しています。42節には、神様がどのような心で御子イエスをこの地に送ってくださったかがわかります。ぶどう園の主人は、息子であれば人々が敬ってくれるだろうと思ったのです。ところが、雇われ人の農夫たちは、その息子を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。
祭司長たちとパリサイ人たちは、ユダヤ人社会で既得権益を持った人たちでした。このたとえから、彼らがイエス様を憎んでいたことが分かります。彼らは、自分たちがユダヤ人社会の主人であるかのようにふるまいました。しかし、彼らは主人ではありません。ぶどう園を借りていた農夫同様、彼らは、イエス・キリストが来られるまでの間、神様からエルサレムを任されていた雇い人にすぎません。彼らはそのことに気づいていませんでした。
祭司長とパリサイ人にとって、イエス・キリストを殺すことさえできれば、罪名は冒涜罪でも何でも良かったのです。彼らの動機は、ただ自分を守り、自分の地位を保つことでした。
イエス・キリストの十字架は、人間のこうした罪が引き起こした悲劇と見ることができます。人の根源的な罪の一つは、盗みです。イエス・キリストが十字架にはりつけにされたとき、主イエスは隣で同じように十字架にはりつけにされていた強盗を慰め、罪を許して天国に引き上げてくださいました。盗人のような私たちの罪を許し、救ってくださったことを象徴するかのようです。