2023年06月11日
マタイの福音書15章21-28節
神に無視されたり見捨てられたりしたと感じ、自分が求めていた神像とのギャップに絶望することがあります。カナン人の女は、イエス·キリストに無視され「子どもたちのパンを取り上げて、子犬にやるのは良くない」と犬同然に扱われましたが、それでも諦めず、叫び続け、ひれ伏して娘の癒しを乞いました。
私たちはイエス様の厳しいお言葉に不快感を覚えるかもしれませんが、その感情にこそ人間の罪が潜んでいるのではないでしょうか。私たちは、口で「神を信じる」と言いながら、自分が神より低くなることは堪らなく嫌です。自分の願望を満足させない神は神ではないとし、神に根拠のない怒りをぶつけ、ふてくされてみせて神を裁き、天の御座から神を降そうと企みます。神の主権を認めず、神と人との本来的な関係を拒否したいのです。これこそ人間の高慢の罪であり、この罪によって、私たちは命の君であるキリストを十字架につけ、キリストが血を流されることをよしとしたのではありませんか。存在を認めないこと、それは殺すことと同じではないか、と私は思うのです。しかし、私たちの罪と弱さをイエス·キリストは喜んで引き受けられました。主イエスは十字架の勝利によって私たちを罪から救い出してくださいました。
カナン人の女は無視されます。それにもかかわらず、彼女は謙虚にひれ伏し、自分を犬のように扱われることを受け入れます。この女性の姿勢は、神の前に進む姿勢としてイエス様に称賛されます。神に対する絶対的信頼がなければ、主に喜ばれる祈りを捧げることはできません。祈りは神に対する信頼の上に捧げられるべきです。
娘を救うために自分の当然保証されるべき尊厳を捨てた女性が、人類全ての罪を背負って十字架で死なれた主イエスの姿と重なります。事実、イエス様は神の完全な沈黙の下にあって神を絶対的に信頼し、謙遜と従順を貫き、神の義を喜びました(詩篇22篇)。イエスの霊は従順と謙遜の霊です(ヘブル人への手紙5章7-10節)。私たちはイエスの御霊を受けなければなりません。神を信じることを恐れてはいけません。主の前に出てひれ伏し、主の平安の中にとどまり、主と同じ心を持つことを願うべきです。世の地位や名声ではなく、神との関係を正しく受け入れることによって、真の平安を神からいただくことができるのです。