礼拝説教

ゲツセマネの祈り


2023年03月19日

マルコの福音書14章32-42節
イエス・キリストが十字架を背負う前に祈った最後の祈りは、壮絶な戦いの祈りでした。主(しゅ)イエスは最後の晩餐の時点でご自分が苦難の十字架を引き受けることを決意されました。イエス様は十字架を回避せず、むしろ十字架こそ栄光であると仰いました(ヨハネ福13:31)。イエス様は、死の悲劇においてこそ、より大きな愛の力が現わされることを宣言されました。十字架はイエス・キリストの偉大な勝利の印です。

イエス様に従っていた弟子たちは十字架の受難の意味を理解していませんでした。弟子たちが見た主イエスの十字架は、主イエスがお一人で背負われた孤独の道でした。

イエス様の宣教において重要な2つの場所がありました。一つは宮、もう一つはオリーブ山です。イエス様はオリーブ山で神様の御国を夢見ながら、そこで深遠な御言葉を弟子たちに教え、祈られたことでしょう。ゲツセマネはオリーブの実から油を絞る場所です。キリストという言葉がギリシャ語で「油を注がれた者」を意味する通り、古代イスラエルでは、王や祭司などの指導者が就任するとき、油を注いで王が神から選ばれたことを示す儀式を行いました。しかし、イエス様が地上で生きておられる間、人々からキリストとして油の注ぎを受けることはありませんでした。イエス様が十字架で殺され、復活された後になって初めて弟子たちはイエス様を真の救い主キリストとして証言するようになりました。オリーブ山のゲツセマネは、イエス様がイスラエルの王として油を注がれるべき場でした。

ヨハネを除く福音書の記者たちは、激しい慟哭をもって祈られたイエス様の姿を記録しました。私たちが主の御姿から知るべきなのは、信仰を持って生きる私たちには例外なく信仰の試みと揺さぶりが迫るという事実です。血の滴りのような汗を流して泣き叫ぶ主イエスの御姿が私たちにとってどれほど大きな慰めでしょうか。しかし、イエス様はご自分の悩みと苦しみをも神様の御前に捧げ、一切のものを神様の御心に委ねて服従されました。福音書を記録したマルコは、自分と弟子たちは死を前にして恐れ逃亡したが、主イエスは揺るぎない信仰で十字架の道をご自分で選び、死に勝利されたことを証(あかし)しているのです。

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