2023年03月05日
ヨハネの福音書11章1-44節
イエス様はラザロとその姉妹たちを愛しておられましたが、すぐには駆けつけず、更に2日そこに滞在しました。なぜそうされたのでしょうか。その答えが核心的なメッセージです。
イエス様をどのような次元で信じるのかは人によって千差万別です。ローマ書2章でパウロはユダヤ人について、外見上のユダヤ人がいて、人目に隠れたユダヤ人がいると言いました。イエス様を信じる私たちも同じです。外見上は信じているようで最終的に神様を信頼できない人もいれば、人には知られていないようでも神様を深く信じている人もいます。今日の聖書の箇所を通して私達は自分の信仰を振り返るべきです。
イエス様は涙を流されました(33節)。イエス様の心情はどのようだったでしょうか。マリアもマルタも、周囲のユダヤ人たちも皆泣いています。イエス様は愛と憐れみの心をもって友と一緒に涙を流されるということなのでしょうか。もちろんイエス様は愛と憐れみに満ちた方です。しかし、イエス様の本当の痛みはそうした表面的なことではなく、より本質に迫る、人々の霊的な状況に対するものではないでしょうか。なぜなら、イエス様は私たちの魂を救うために来られたからです。マリアはイエス様に「遅すぎたのです」と言い、神様の力をマリアの想像の範囲に閉じ込めようとしました。彼女が神様の力を信じずに泣いているのをご覧になったイエス様は、神様の痛みと嘆きを感じて涙を流されたに違いありません。
ラザロが苦しんでいる状況でイエス様はすぐに来て癒やしてくださいませんでした。むしろ更に2日長くお待ちになりました。イエス様には理由がありました。すぐに来てくださらないのも主(しゅ)の働きです。私たちは神様を信頼し、「信じる者には神様があらゆる問題の答えを用意してくださっている」と信じなければなりません。
イエス様を信じる者にとって、肉体の死は死ではありません。イエス様は、肉体の死は天の父のもとに帰ることであると言いました。マリアもその兄弟ラザロも確かにイエス様を愛し、イエス様も彼らを愛しておられました。しかし、ラザロは病にかかって死にました。人はだれも例外なく死にます。自身に降りかかる不幸をもって神様を恨むのは見当違いではないでしょうか。私たち信じる者の信仰は、復活と永遠の命の主に対するものです。(注:ラザロが死から生き返ったのは蘇生であり、イエス・キリストの復活とは異なります。)