2023年02月19日
ローマ人への手紙4章4~8節
人はただ、イエス・キリストの血による贖いを通して罪を洗い清められます。善行、献金、修行といった行いによっては、私たちの罪は決して清められません。
人生の生き方には二通りあります。一つは自分の能力と努力によって生きる人生、もう一つは神様の知恵と恵みによって生きる人生です。前者には努力が報われることによって味わえるこの上ない喜びがありますが、未来に対する不安は尽きることがありません。後者には、どのような困難に直面しても神様に望みを抱くことによる平安があり、人生がより味わい深いものとなります。使徒パウロは、後者の生き方へと私たちを招待しています。
信仰生活は神様との労働契約ではありません。労働的な信仰は損得という利害の打算に終始します。あなたが信仰を守って生きると神様はあなたに祝福の借りがあるのでしょうか(ローマ11章35節)。神様が願っているあなたとの関係は、愛と恵みによって結ばれる父と子の関係です。
自分の行いや功績が、神様の恵みよりも優先されるとき、信仰の危機が訪れます。パウロの独特な表現を借りて言うならば、自分の行いや功績を誇ることは「肉」です。パウロは、神の前に肉を誇ることのできる者はいないと言っています。総理大臣であっても、大企業の社長であっても、神の前では皆一人の罪人です。このことを心から認めるとき、あなたは神様の憐れみと愛、恵みを受け取ることができます。
ローマ人への手紙4章7~8節は旧約聖書詩篇32篇1~2節の引用で、ダビデ王の歌です。ダビデは死罪に値する重大な罪を犯しましたが、神に罪を覆われ、生きることを許されました。神はこのように人類に接してこられたのです。イエス・キリストの驚くべき死と十字架の贖いは、全ての人類に対する神様の愛の確証です。神はあなたを罪人と見なさず、かえってあなたの罪を覆ってくださり、赦してくださるのです。これを恵みと言います。キリストの十字架という恵みの事件は、ダビデが経験したのと同じ出来事であった、そうパウロは証ししているのです。
人は神の御言葉である聖書をとおして自分の心の中にある憎しみや高慢といった罪に気づかされ、その度に主(しゅ)の祭壇の前に出て悔い改める必要があるのです。「わたしの弱さ、罪深さ、卑怯さをご覧になっておられる神様、どうかわたしを憐れんでください。イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、わたしの罪を清めてください。」このような祈りを霊とまことによって(真心を込めて)神様にささげるとき、神様は、あなたを義人としてくださいます。あなたを救ってくださったイエス・キリストは、ご自分の命を賭して、あなたのために十字架を背負われて死なれました。恵みは一方的な贈り物です。恵みには、受け取る側の行いが何一つありません。あなたが神様に支払うべきであった代価は、すでにイエス様が支払ってくださっているのです。