礼拝説教

新しい人を着る


2023年01月29日

エペソ人への手紙4章22-24節

使徒パウロは、私たちが救われた後に脱ぎ捨てるべき「古い人」があり、着るべき「新しい人」があると言いました。聖書には「衣服」は「行い」を指すと教える箇所があります(ヨハネの黙示録19章8節「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」)。行いは習慣とも言えるでしょう。救われた私たちには捨てるべき習慣と、新しく身につけるべき習慣があります。習慣という点に関して私たちは変わるべきであり、習慣の変化を通して新しさを体験します。

私たちが人生において全く新しくされる劇的な転換点はどこにあるでしょうか。それはイエス様を救い主(すくいぬし)キリストとして自分の人生に迎え入れたときです。イエス・キリストが私の罪を背負って私の代わりに十字架で死なれ、その死によって私の罪が清められたことの確信が与えられたとき、その信仰によって私は罪から救われ、新しく生まれ変わります。私の行いや努力によっては、自分の中にある罪の根っこは決して取り除かれません。自由を得た私の霊は軽くなり、生き生きと舞い踊ります。

救われて新しくされた者が経験するのは、以前の古い自分との戦いです。心では聖なる生き方を願って祈りますが、肉の身体が弱いのです(ローマ人への手紙7章15-24節)。救われた後も自分の罪に苦しむのがクリスチャンの現実です。自分の中に古い人、古い習慣が残っていて、自分の霊が肉の罪と戦っているからです。古い人を脱ぎ捨てて、真理に沿った義と生き方をもって、神に形作られた新しい人を着る。人が新しくされるのは、聖書の言葉と祈りを通して聖霊が心に触れてくださることによります。聖霊は弱い私たちを助けてくださり、私たちと一緒にうめきながら、私たちをとりなしてくださるでしょう(ローマ人への手紙8章26-27節)。

信仰は、世界をお造りになった神様との人格的な出会いから生まれます。家族や友人の誰かが教会に行くから自分もついていくのなら、教会生活は長く続かないでしょう。信仰の歩みは、何か特別な仕事を達成していくことではなくて、救われたときの最初の感動と恵みを絶えず回復し、その恵みの力によって生きる自分へと変わっていく過程です。

私の罪の代価を主(しゅ)イエスが代わりに支払って十字架で身代わりとなって死なれ、私は生きることを許されたのです。もはや今生きている私は私自身ではなく、キリストが私の中に生きているのです。私はキリストを信じる信仰を通して、ただ恵みによって神様に義と認められたのですが、その義は私の上にキリストが着せてくださったキリストご自身の義です。この告白が私の魂を新しく作り変え、この恵みが私の魂を生かすのです。

一方的な恵みによって私は永遠の死から永遠の命へと移されました。何の実りも見いだせず、何一つ満足に持っていない人生でも、私が救われたときに悟った恵みの広さ、主の愛の深みが私の心に蘇るとき、私の魂は命を得て喜び踊り(ハバクク3章17-19節)、私の杯はあふれるでしょう(詩篇23篇5-6節)。

恵みによって救われ、生かされている新しい人生では、経験する苦しみも、自分の弱さも、涙も、その一つひとつが神様の前に築く祭壇になります。私の無力さは、主の栄光を表す生け贄です。神様に対する初めの愛を回復することの、どれほど幸せなことでしょうか。自分の間違った姿を振り返り、神様に触れられて最初に流した熱い涙と感動を取り戻すことが大切です。

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