礼拝説教

馬小屋から十字架、そして栄光へ


2025年12月07日


<はじめに:華やぐ季節に黙想する>

クリスマスが近づき、街が華やぐこの季節だからこそ、私たちは心を静めて、神の御子のご降誕という驚くべき出来事を深く黙想したいと願います。マタイとルカの福音書は、神の御子がどのようにしてこの地上に来られたかを克明に記録しています。特にルカの福音書2章には、ご降誕の劇的な場面が描かれています。

ダビデの家系に属するヨセフは、身重のマリアと共に、ダビデの町である「ベツレヘム」(ヘブル語で「パンの家」の意)へと向かいます。神の御子は、王宮ではなく、家畜のにおいが立ち込める馬小屋で、冷たい飼い葉桶に寝かされました(ルカ2:4-7)。この情景こそが、キリストの生涯の主題となる「謙遜」を象徴しているのです。

<キリストの心を持つとは?>

使徒パウロは、ピリピ人への手紙2章で、このイエス様の生涯の核心を深く掘り下げます。パウロはまず、信徒たちに「キリストにあっての励まし、愛の慰め、御霊の交わり、そして愛情とあわれみ」(ピリピ2:1)を求めます。私たちは一人で生きられる存在ではなく、励ましと心からの慰めが必要です。この慰めと、見知らぬ他者をも温かく受け入れる「ホスピタリティ」こそ、まさにキリストの心です。

パウロは続けて、利己的な思いや虚栄を捨て、「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と勧めます(ピリピ2:3)。これこそが謙遜の本質であり、イエス様ご自身が「わたしは心が柔和でへりくだっているから、わたしから学びなさい」(マタイ11:29)と語られたメッセージです。キリストの人生そのものが、「柔和と謙遜」という生きたメッセージでした。

<メシアへの期待と現実>

当時の人々は、メシアがダニエル書7章の預言にあるように、「天の雲とともに」圧倒的な権力と栄光をもって、大軍勢を率いて来臨すると信じていました。しかし、現実は全く異なりました。神の御子は、権威ある王としてではなく、「馬小屋のイエス」として、最も弱い姿で来られました。後にエルサレムに入城される際も、軍馬ではなく、幼いロバに乗って来られたのです。

この御子の来臨の真理は、私たちの思い込みを超えています。皮肉なことに、聖書を読みメシアを待ち望んでいたはずの選民イスラエルは、目の前に現れた主を見分けることができませんでした。しかし、遠い異邦の地で星を研究していた東方の博士たちが、その誕生を真っ先に知りました。これは、神の奥義が、必ずしも権威や伝統ではなく、創造主を畏れる真摯な心に開かれることを示しています。神の目に見えない性質は、世界が創造された時から被造物を通してはっきりと認められるのです(ローマ1:20)。

<神の御子の自己空虚(ケノーシス)>

パウロは、このキリストの心、すなわち「柔和と謙遜」の究極的な姿を、神学的な深みをもって描き出します。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:6-7)。

神の右の座におられた方が、支配者としてではなく、最も低きしもべの姿を選ばれたのです。この「ご自分を空しくすること」こそが、神学用語でケノーシス (Kenosis) と呼ばれる、驚くべき愛の行為です。イエス様は、傲慢さが支配するこの世界に対し、権力ではなく、柔和さと優しさをもってご自身を現されました。

<十字架の死と父なる神の痛み>

そして、この謙遜は究極の服従へと導かれます。

「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:8)。

王であられる方が完全に空っぽになり、最も低いしもべの姿をとり、私たちのために死に至るまで従順を貫かれたのです。ローマ書は、この死の核心を、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)と語ります。

さらにパウロは、神が「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された」(ローマ8:32)と語ります。「渡された」という言葉は、私たち人間の罪のために、神様が御子を犠牲として差し出された、深い痛みの歴史を物語っています。この深い悲しみの世界を知るからこそ、私たちは真の「謙遜と涙」の心を知り、主からの確かな慰めを受けることができるのです。

<すべての名にまさる名>

しかし、物語は悲劇で終わりません。主の完全な従順に対し、神は最高の栄光をもって応えられました。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって... すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」(ピリピ2:9-11)。

神の御子が私たちのもとに来られたことの最も深い真理は、この謙遜と従順にあります。福音書の冒頭に記された「飼い葉桶のイエス」の真理を深く心に留め、私たちもキリストのように、柔和で謙遜な心を抱いて、このクリスマスという恵みの時を過ごしてまいりましょう。

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絵画:The Adoration of the Magi、1828)、ドミンゴス・セルグエイラ(1768–1837)

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