2024年06月09日
本文:マタイの福音書26章59〜61節
イエス・キリストが捕えられて大祭司カヤパのところに連れて行かれたとき、祭司長たちと最高法院によって訴えられた罪状は、神殿と神を冒涜したということでした。ヨハネの福音書2章にはイエス・キリストにユダヤ人が対立する場面が記録されています。キリストは神様を熱心に慕い、神様の御心にかなう神殿にする一心で生きられました。ところが、神殿を支配していたアンナスの一族の妬みと憎しみの標的になったのです。アンナスの一族は神殿を利用して金銭を稼ぎ、権力を維持し、イスラエルの民を牛耳っていました。それゆえ、彼らは主イエスを死刑に処することを画策して捕らえ、多くの偽証人を集めて裁判で証言をさせました。
ユダヤ人たちはエルサレムを宇宙の中心と考えていました。そのエルサレムの中心は神殿でした。世の終わりの日には神の民が栄光を受け、全ての民族が裁かれるという約束の預言を受け継いでいました。それゆえ、神殿を壊すことは宇宙に混乱をもたらすことになり、神様の約束に抵抗する挑戦と受け取られるのです。しかし、主イエスが「この神殿を三日でよみがえらせる」と言われたのは、ご自分のからだという神殿のことでした。
私たちの心にも例外なく神殿が建てられています。人はなぜ互いに争うのでしょうか。皆が、自分の国、自分の民、自分の信念を宇宙の中心と思っています。自分が高くなろうとし、自分を宇宙の中心に置こうとする、高慢と自己中心性こそ人間の罪の性質であり、この性質が人間の間で争いをもたらし、真理を拒み、平和を阻む高い壁を築くのです。
イエス・キリストは、ご自分を世の卑しい存在のように低くされ、多くの人のために捧げられる犠牲の供え物として生きられた方でした。それが十字架を通して私たちの見た主イエスの生き方でした。
十字架は、宇宙と全ての被造物をお造りになった神様の愛を完全に表しました。この世界と私たち人間はこの愛によって作られました。十字架は宇宙の中心です。ですから、主の十字架が私たちの生き方の中心であるべきです。考えと決断と行動の基準が十字架であることが大切です。
私たちは隔ての壁によって互いに離れていたのに、主イエスがご自分を打ち壊すことによって、真にして永遠の平和を実現された、とパウロは言いました(エペソ人への手紙2章11-16節)。真の平和と一致は、私たちがイエス・キリストと出会うことによってのみ可能なことです。