礼拝説教

土の器と宝


2023年08月13日

創世記2章7節を見ると、「神である主(しゅ)は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(新改訳2017)とあります。ちりとは泥や粘土ではなく、ホコリのような役に立たないものです。神様は、そのようなものに息を吹き込んで、人間を生きるものにしてくださいました。人間はちりと神の息が合わさった存在です。「無価値なもの」と「価値あるもの」が一つになって生きるものになりました。

人間は肉と霊から成り立っています。肉は、利己的で、いつも自分のことにだけ関心があります。霊は、愛です。神の霊は、真の愛ですから、利他的です。利他的とは他人を中心に考えることです。信じて救われると、心が温かくなって、世界が本当に美しく見える。人々をもっと知りたい。愛したい。尽くしたい。そういう感覚が生じます。しかし、そこでどんな現実が待っているかというと、ほぼ例外なく葛藤を経験します。他者と自分との間に生じる葛藤よりも、多くの場合、「内なる自分」と「外なる自分」との葛藤です。他人のために、どうして自分が苦労しなくてはならないの?自分とは何の関わりもない人のためになぜ自分を無にしなければならないの?自分だけ犠牲を払っても誰も見ていないし、苦労するだけ無駄じゃない?こういった思いは、他者との葛藤ではありません。内的な葛藤が、自分の肉と霊との間に生じているのです。

イエス・キリストの復活を思い出してください。聖書が教える復活と、ギリシャ哲学の霊魂不滅説は同一ではありません。パウロは、御霊に属する体を着ようと願うなら、血肉の体で蒔かれなければならないと言いました(コリント第一15章44節)。肉の体、利己的な体が、地に蒔かれるとき、御霊に属する体を得ます。血肉の体が犠牲を払い、霊の願いが肉の欲に打ち勝つということです。真の愛は積極的です。その極点は「犠牲」です。母親の愛が偉大なのは、自分を犠牲にする愛だからです。自分の思いを優先するのではなく、自分を無にすること。それが主イエスの生き方でした。主イエスを信じる信仰を得た者たちは、主イエスの復活を信じ、利己的な肉の欲を殺して御霊に動機づけられて生き、十字架の道を主とともに生きるように変えられます。

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