2023年02月05日
イザヤ書 40章27~31節
人間は有限的で罪深い存在なので、神様の本心や事情を理解することができません。「神様はわたしの正当な権利を守らないのか」「神様はわたしの心配事に関心を向けないのか」と悲観して一人落胆している、それが人間の姿です。「わたしの道は主に隠れ、わたしの訴えはわたしの神に見過ごされている」(イザヤ書40章27節)というように、わたしたちは気やすく神様に申し立てを行います。神様の前に進み出て、自分の訴えだけを神様に聞いてもらいたがり、神様の言葉を聞こうとしません。神様は預言者イザヤを通して、わたしたちの申し立てに心を痛めておられる神様のご事情を伝えてくださいました。
わたしたちは神様に様々なことを祈りますが、言葉に気をつけて祈っているでしょうか。自分が言いたいことを並べ立てて訴えるのではなく、神様の言葉に耳を傾けることが大切です。
神様のご事情がイザヤ書50章に書かれています。
"なぜ、わたしが来たときだれもいなかったのか。わたしが呼んだのに、誰も答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか。"(イザヤ書50章2節抜粋)
人間は神様の元を離れて自分の好きな道を進み、自分の罪の結果、困窮するようになりました。神様とわたしたち人間との間にある荒涼たる隔たりが相変わらず存在している限り、わたしたちの祈りは間違ったままです。
神様は愛の神様だけでなく、全能の父なる神様です。わたしたちに致命的な欠点があっても、補って余りある力を溢れるほど注いでくださいます。イザヤ書40章は、神様の偉大さと、無限の能力を語っています。なぜ預言者はこれを預言したのでしょうか。人間が自分の目線で神様を測ろうとするからです。神に選ばれた民、イスラエルでさえ、全能の神様を知らないかのように生きました。クリスチャンはどうでしょうか。わたしたちが神様を信頼せずに生きるとき、世の勢力がとても大きな存在として迫ってきます。今も生きておられる神様の力を信じることができないからです。
神様はわたしたちのせいで疲れることがありません。わたしたちは自分の基準で神様を見て、わたしだって人生に疲れているのだから、きっと神様もわたしの世話に疲れてもう辞めたいと思っているだろうと、神様を自分の限界に当てはめようとします。しかし、神様は唯一にして永遠の創造主です。この天と地を創造なさったお方は、疲れることも、弱ることもなく、その英知は計り知れません。それだけではありません。神様は永遠の愛でわたしたちを愛しておられる方です。愛に満ちた方は疲れず、弱らず、日々新しいのです。
神様の愛を受け取るわたしたちがすべきなのは、その方の愛を求め続けることです。神様の愛をわたしたちがいつも感謝で受け取って、その愛がわたしたちの中で熱い炎のように燃えて力となるように。そして、その愛で神様を愛せるように、また、その愛で多くの人々を愛し、福音を伝えることができるように。わたしたちの祈りがそのような祈りへと変えられていくことが大切です。