お知らせ

最後まで愛し抜かれたイエス

2026年03月01日

聖書箇所:ヨハネの福音書 13章10節~30節

私たちは今、受難節(レント)の期間を歩んでいます。十字架への道が本格的に始まるヨハネの福音書13章から、死を前にしてもなお、弟子たちを「最後まで愛し抜かれた」イエス様の驚くべき姿を黙想しました。

弟子の未熟さと、仕えるリーダーシップ
最後の晩餐の席で、弟子たちは「誰が一番偉いか」と言い争っていました。これから十字架にかかろうとする主を前に、彼らの関心は「主の愛」ではなく「自分のポジション」にあったのです。
しかしイエス様は、そんな彼らを叱るのではなく、自ら手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの汚れた足を洗い始められました。

「一番偉い者は、皆に仕える者になりなさい」。
イエス様は口先だけでなく、最も低いしもべの姿となって「サーバント・リーダーシップ」を示されました。信仰生活とは、難しく考えることではなく、イエス様のように目の前の人の足を洗うような、小さな奉仕から始めることです。

計算する愛、計算しない愛
一方で、この愛の食卓の裏側では、イスカリオテのユダによる裏切りのドラマが進行していました。
以前、ある女性が高価な香油をイエス様に注ぎかけた時、ユダは「無駄遣いだ」と批判しました。彼はイエス様の価値を「銀貨30枚(奴隷一人の値段)」と計算し、損得で判断してしまったのです。

しかし、神様の愛は「計算しない愛」です。放蕩息子を迎えた父のように、あるいは香油を注いだ女性のように、神様の愛は採算度外視の「惜しみない愛」です。信仰が冷え、愛が冷えると、私たちは「こんなに捧げて何になるのか」と計算を始めます。その心の隙間にサタンは入り込みます。

夜の闇と、差し出されたパン
イエス様は「心に激動(騒ぎ)」を覚えられました。それは愛する友に裏切られる痛切な悲しみでした。それでも主は、ユダを「特等席」である隣に座らせ、親愛の情を示す「浸したパン」を与えられました。これは「まだ間に合う、帰っておいで」という最後の愛の招きでした。

しかし、ユダはその愛を拒絶し、パンを受け取るとすぐに出て行きました。「時は夜であった」と聖書は記します。それは単なる時間のことではなく、世の光であるイエス様を拒み、魂の暗闇へと踏み出したことを意味しています。

結び:愛を信頼して
ユダの最大の悲劇は、裏切ったことそのものよりも、その後に主の愛を信頼できず、自ら絶望を選んだことにあります。もし彼が十字架のもとに戻っていたなら、主は必ず彼を赦されたはずです。

私たちも弱さゆえに、主を悲しませるような思いを抱くことがあります。しかし、主はそんな私たちの汚れた足をも洗おうと待っておられます。
このレントの期間、自分の計算やプライドを捨て、私たちを最後まで愛し抜いてくださるイエス様の愛に、改めて信頼して歩んでいきましょう。

【祈り】
天の父なる神様。あなたが心を痛めながらも、私たちを最後まで愛し抜いてくださることを感謝します。どうか私たちの心を柔らかくし、あなたの愛を「無駄」と計算するのではなく、ただその愛を信頼して受け取る者としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。