2025年04月27日
本文:使徒の働き(使徒言行録)26章
カイサリアに赴任したばかりのローマ総督フェストゥスは、エルサレムのユダヤ人指導者から訴えられたまま二年間拘束されているパウロの扱いに頭を抱えていました。罪状をまとめられないままローマ皇帝に送致しなければならない――それが彼の悩みでした。そこへ表敬訪問に来たのが、ヘロデ家最後の王アグリッパ Ⅱ世と妹ベルニケです。ユダヤ事情に精通する王の助言を得ようと、フェストゥスは早速パウロの審問を提案しました。
アグリッパ王の前での弁明(1〜8節)
アグリッパから発言を許されたパウロは、まず王がユダヤの慣習と論争に通じていることに感謝し、自身が厳格なパリサイ派として育った事実を述べました。
「私がここに立って裁かれているのは、先祖に与えられた“死者の復活”の約束を望んでいるからです。」
ユダヤの十二部族が昼夜熱心に待ち望んできた希望、それがメシアの到来と復活でした。パウロは「イエスの復活こそ、その希望の成就である」と宣言します。
ダマスコ途上の出会い(9〜18節)
かつてパウロはこの主張を激しく否定し、クリスチャンを「国外の町々にまで」追って迫害しました。しかしダマスコへ向かう途中、真昼の太陽よりもまばゆい光に囲まれ、復活のイエスに呼び止められます。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」
主イエスは倒れたサウロに「起き上がって立ちなさい」と命じ、ユダヤ人と異邦人の“目を開き、闇から光へ”導くこと、罪の赦しと信仰による相続の希望を告げることを使命として与えられました。
天からの幻に背かず(19〜23節)
パウロはダマスコ、エルサレム、ユダヤ全域、さらに異邦の地で悔い改めを宣べ伝え続けました。そのためユダヤ人に捕えられたものの、神の助けのゆえに今日まで証言の場が守られている、と彼は語ります。
ここで強調されたのは、キリストが苦しみを受け、死者の中から最初に復活し、ユダヤ人にも異邦人にも光を示されるというモーセと預言者の預告が成就した、という一点でした。
フェストゥスの妨害とアグリッパの動揺(24〜29節)
パウロの熱弁に業を煮やしたフェストゥスは大声で「おまえは気が狂っている!」と割って入ります。しかしパウロは静かに―
「私は真実で理にかなったことを話しています。」
と応じ、今度は王に向かって「預言者を信じるか」と迫ります。アグリッパは「わずかの説得で私をクリスチャンにするつもりか」と取り繕いましたが、その心は揺れ動きました。パウロは鎖につながれたまま、
「短くても長くても、あなたも今日の聴衆も、鎖を別として私のようになってくださることを願います。」
と締めくくります。魂の自由こそ、復活の主が与える真の解放であると語ったのです。
「この人には死も投獄もふさわしくない」(30〜32節)
退場して協議したアグリッパとフェストゥスの結論は、「この人には死刑にも禁錮にも値することは何もない。」でした。アグリッパは「皇帝に上訴しなければ釈放できたのに」と述べますが、すでにパウロはローマ行きが決しています。
パウロの功績とローマ帝国キリスト教化への道
パウロが総督や王の前で恐れずに語った福音は、その場限りの弁明にとどまりませんでした。ローマ皇帝への上訴によって彼は帝国の首都ローマへ護送され、そこで福音を堂々と宣べ伝えました(使徒28章参照)。パウロの働きにより、ローマ兵士や「皇帝の家の人々」(ピリピ4:22)にまでキリスト者が起こされました。彼が投獄中に書いた諸書簡は、後世の教会の信仰と神学を支える基盤となりました。この大胆な証しと神学的遺産が、後の世代のクリスチャンにローマ社会のあらゆる層へ福音を届ける勇気を与えました。やがて AD 313 年のミラノ勅令でキリスト教は公認され、さらに AD 380 年には国教として認められます。
パウロの命を懸けた告白が、やがて帝国そのものを福音の前にひざまずかせる礎となった――
それは、神が歴史を主権的に導かれることの雄弁な証しです。
私たちもまた、この勇気と確信を受け継ぎ、それぞれの時代と場所で復活の主を証ししてまいりましょう。