2020.09.27 あなたのからだを生きた供え物としてささげなさい

ローマ人への手紙12章1~2節
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会

礼拝は、人間が神に捧げるものです。動物は礼拝を捧げません。人間は霊的な生き物です。

ユダヤ人は動物を殺して捧げることによって礼拝をしました。(レビ記4章)人間は神から離れて堕落し、罪に穢れました。神に定められた律法どおりに、区別された清い犠牲を捧げることによって神の御前に出ることが許されていました。しかし、イエス様がご自身の命を十字架で捧げた犠牲によって、私たちは今後一切動物の代償の生贄を捧げる必要がなくなりました。(へブル人への手紙9:12-14)

神様が喜ぶ犠牲は生きた聖なる犠牲でした。イエス様が私たちのための犠牲となってくださったのであれば、私たちが捧げる生きた犠牲とは何を意味するのでしょうか。それは、イエス様が背負ってくださった十字架が本来あなたが背負うべき十字架であったことを悟り、悔い改めて創造主なる神の愛を信じる信仰に立ち返る人生です。そして、そこからイエス様の十字架の生き様を自分自身も一緒に歩むことです。すなわち、主から頂いた愛を分かち合い、互いに仕え、互いに重荷を負い合うことです。(へブル13:16)

イエス様は、ご自身が血を流すことによって神の宥めの捧げ物となり、神と私たちとの間に平和をもたらしてくださいました。(ローマ5:1)更に、私たちの罪をイエス様が自ら背負い、十字架で死なれ、私たちの罪を清めてくださいました。(へブル9:12)

イエス様を信じるとは、イエス様の血が私の罪を許すための犠牲であり、イエス様を通して私の罪が既に許されたことを確信することです。(へブル10:17-20)

考えてみれば、私たちは自分の救いの過程において何一つ誇ることがありません。ただ子羊イエスの犠牲によって、アダムの子孫という滅びの身体から罪を取り除いていただき、キリストの子孫へと生まれ変わることを許されました。(ローマ5:18-19)この神秘的な救いにおいて、私たちが神の前に誇れることなど何一つないのです。

ですから信仰者は、イエス様の愛に応答し、自分が変えられていくのです。イエス・キリストが自分の中に生きてキリストに似る者となり、キリストの愛を実践するようになる。それが信仰者、クリスチャンの聖化の歩みです。

わたしたちの人生が神様に向かって、神にだけ目を向けて生きるとき、私たち一人ひとりの身体が、私たちの人生そのものが、神様に捧げる霊的な礼拝になるのです。