2020.08.30 私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためです 

ルカによる福音書5章27~32節
その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」
そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

新約時代のユダヤ人にとって取税人は、同じユダヤ人でありながら宗主国ローマに代わって同胞から税金を取り立てて裕福な生活を送る罪人でした。別の書(マタイ9:10)ではマタイとも呼ばれた取税人レビがイエス様に召し出され、イエス様を食卓に招いたときの話です。パリサイ派の人たちは、罪人と食卓につくイエス様を批判しました。

パリサイ人は義人だからイエス様を必要としていない、という話ではありません。神の前に義人は一人もいないと聖書は教えます(ローマ3:10)。病気に例えるなら、あなたは自分を健康と思っていても、いつのまにか病にかかっているのです。コロナウイルスであれば感染に気付かず、症状も無く、死を免れる可能性もあります。しかし、罪は全ての人を冒しており、人を100%死に至らしめるのです。

自分が罪人(つみびと)であることに気づくことがどれほど大切でしょうか。病気であることを悟るとき、助けを求めることができます。罪とは、創造主である唯一の神から心が離れることです。人は、唯一の神から心が離れると、心に渇きを覚えます。

唯一の神を知らない人は自分の力で心の渇きを満たそうとします。しかし、人間の力では心の渇きを満たせません。イエス様を通して唯一の神様と出会うときのみ、人はまことの、永遠の安らぎを得ます。あなたもイエス様を知り、この安らぎを得てください。

心にイエス様を迎え入れる人は祈るようになります。祈りがその人の心を開き、唯一の神へと導きます。祈り自体が罪の解決策ではありませんが、祈らない・祈れないという姿勢は罪の症状です。イエス様は、小さな、からし種ほどの信仰があれば、山に動けと言えば動くと言いました(マタイ17:20)。イエス様は、祈ることしかできないほど大きなことのために祈ることを教えました。私たちの祈りは、日常的で些細なことにばかり向けられていないでしょうか。神の力を求める切実な祈りを神様は待っておられます。(ローマ8:24-25)

祈りの欠如が罪の症状であるように、「心」が伴わない状態は罪の兆候です。イエス様は、イエス様を求めて集まった取税人たちと食卓を共にしました。イエス様の心は彼らと共にあり、取税人たちの信仰を喜んで受け入れてくださいました。一方、それを見たパリサイ派の人たちは、「罪人の集まり」と心ない言葉を投げかけました。パリサイ派の言葉は律法に書かれた通りでした(出エジプト34:15)が、律法の核である神への愛がありませんでした。救いの喜びにあふれる取税人たちの心が見えませんでした。私たちクリスチャンにも、神の恵みによる存在であることを忘れ、他人の善行を妬む冷たさは無いでしょうか。

私たちは、食事や奉仕、小さな挨拶や感謝・労いの言葉、相手の話に耳を傾けるとき、何をするにも心をそこに置き、一粒の愛を注ぐようにしたいものです (Iコリント10:31 )。母親の料理をおいしく感じるのは、料理に心が注がれているからです。神様は、人間が心を味わうことができるように人間をお造りになりました。御言葉を学ぶときも、神様の御心を知ることが大切です。相手の心に注目すること、自分を保つことよりも相手を愛すること、この姿勢がイエス様の生涯を通して示された、神様の愛のかたちです。