2020.08.23 弟子の道

ルカによる福音書9章57節~62節
さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
イエスは別の人に、こういわれた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
聖書 新改訳©2003 新日本聖書刊行会

イエス様の弟子とは、後から従ってくる者たちを主の御もとに迎え入れる門であり、都を聖別する城壁です。(ヨハネの黙示録21:13)

イエス様の弟子には次の3つの性質があります。
① イエス様の復活の証人である(使徒1:22-23)
② キリストのかおりを放っている(コリント第二2:15)
③ 兄弟姉妹たちと一緒に真っすぐに歩んでいる(使徒15:38)

イエス様の弟子の召命に応じることには犠牲が伴いました。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
これは所有や富に関する挑戦であり、イエス・キリストは所有を全てその場に捨て置いて従っていく決意を弟子たちに確認されます。神の国と義を第一に求める者には、それ以外のものも添えて与えられるだろうと主は仰いました。しかし、主に従うには、まず物的所有を乗り越えなければなりませんでした。イエス様の弟子たちは皆、それらを置いて直ちに従いました。

あなたが弟子の召命を頂き、それに応じようとするのであれば、漁師だった使徒が舟と網を置いて主に従ったのと同じ決意が求められていることを理解しなければなりません。

この世で平穏無事に生きるよりも、神の御国に向かって真っすぐに生きるほうが価値ある人生です。イエス様は、裕福な者が神の御国に入ることはラクダが針の孔を通るよりも難しいと仰いました。信仰を持てば何でも思い通りになると思ってはいけません。イエス様に従う者は、時が良くても悪くても、いかなる状況の中でもイエス様を信じて従うべきです。

イエス様は、別の人が「まず私の父を葬ることを許してください。それからあなたについて行きます」と言ったのに対し、「死人たちには彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の御国を言い広めなさい」と仰いました。(ルカ9:59-60)キリスト教は愛の宗教であるのに、なぜイエス様はそのような薄情をお求めになったのでしょうか。人として肉親を弔うのは正しいことであり、人間として最低限の義務ではないでしょうか。

イエス様を信じるキリスト者として、イエス様の事情を理解する努力が大切です。人の日常生活や信条よりも優先すべきキリスト者の生き方があるのです。そして、その決断は急を要するのです。神の御国が近づいた切迫した状況をあなたはイエス様と共有できるでしょうか。

イエス様は、「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:49)と言われました。しかし、イエス様は母マリヤを愛していなかったのではありません。むしろ、十字架にかけられ、苦痛に喘ぎながらも、イエス様は母を愛して気遣い、弟子に母を託されました。(ヨハネ福19:26)しかしイエス様は、ご自身の家族よりも神の御国を優先されました。イエス様が弟子にお求めになった信仰は、ユダヤ人が尊敬する預言者エリシャの信仰を上回る水準でした。(列王記第一19:20)

いまや、キリストのときが来たのです。それは収穫のときです。ときは切迫しています。しかし、キリストの事情とは相反して、私たちには、信じる前の生き方や物的所有を手放しきれないエリシャのような姿があります。イエス様の弟子たちは、舟と網をその場に置いて直ちに従いました。私たちも主の召命を頂いたとき、直ちに主に従う信仰を持つようになりましょう。