2020.08.16 金銀は私にはない

使徒の働き3章1節~10節
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、うまれつき足のなえた人が運ばれてきた。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
聖書 新改訳©2003 新日本聖書刊行会

モーセの十戒の最後の戒め「むさぼってはならない」は、心の中で隣人の所有を欲しがることです。目に見えない罪に対する戒めを、創造主なる神はモーセの時代に既に与えました。神は私たちの心の中にある罪悪を吟味すべきであることを教えられました。なぜなら、人間はむさぼる傾向があるからです。

イエス様が解き明かした律法は、十戒の律法の水準を超え、かつ律法を完成させるものでした。イエス様の教えはこうです。人を憎む者は、心の中で殺したのであり、情欲を抱いて女を見る者は、心の中で姦淫したのです。当時のユダヤ教では、姦淫を犯した者は死刑と定められていました。

使徒パウロはむさぼりの誘惑を克服しました。(使徒20:33-34)人間なら誰しも持つ罪をパウロはどのように克服したのでしょうか。それは、あらゆるものに遥かに勝(まさ)って尊いものを手に入れることによってのみ可能でした。心を虜にするものは世の中に幾らでもあります。そしてそれらは余りにも手軽に手に入ります。人間は本来無価値なクズのような、実体のない影のようなものに熱狂します。全的に堕落した人間の力では、真理に辿り着くことはできません。

真理はイエス・キリストによって明らかにされました。真理が宣言されるところにイエス・キリストがおられます。真理の唯一の土台はイエス・キリストです。パウロの心にはイエス・キリストという土台が据えられていたのです。

自分の心を最初に最も尊いもので満たすことが、むさぼりの罪に打ち勝つために必要です。その尊さを悟ると、その他のものは完全に色あせて見えます。真理に従って創造主なる神を賛美し、神と深く出会って歩む人生に勝る人生がどこにあるでしょうか。真理以外を得るために費やす人生は無価値なばかりでなく、自分を尊いものから遠ざける損ですらあります。

脚のなえた人が、美しの門と呼ばれる門に運ばれて、物乞いをしていました。自分で稼ぐことができない、難しい状況です。その人は生きるためにお金を求め、行き交う人々に物乞いをしていました。ペテロとヨハネがそこを通りかかると、その人は同じように物乞いをしました。「お金が必要です。生きるためにお金を下さい。」

「私たちを見なさい」とペテロは言いました。脚のなえた人は何を見たでしょうか。ペテロが手に持っているもの、腰から下げた小銭入れを見たのかもしれません。ペテロは言いました、「あなたが探しているものを私は持っていません。」しかし、ペテロたちは金や銀より遥かに尊いものを持っていました。それはイエス・キリストです。それは私たちにも与えられています。この世の全てを超越し、統べ治める真理。永遠に朽ちることのない真理、唯一の福音、真の命に至る道。

この尊いもので心が満たされていれば、私たちは金や銀に心を奪われません。金銀が与えられても主に感謝し、金銀が無くても主に感謝しているのです。人生の優先順位が明確であるべきです。最初にその順位を立てていれば、それ以外は後からついてきます。日常的なことに決して困惑したりしません。最も大切なものを頂いたから、自分の全てをそのために捧げるのです。

真理を頂いた私たちの使命は、別のものを探し求めている人の手を取り、イエス・キリストに気づかせ、立ち上がらせることです。